ゴッホ展 乱 雑記


主婦の特権を生かして 朝一番開場を待って入館 真っ先に一番奥の部屋へ・・・
10分間「夜のテラス」と「糸杉と星の見える道」を独り占め! けっこういい気分だったりした
あとまだ何枚か招待券があるので また独り占めしに行こうかと思った

私はゴッホに関する本などを全く読んだことがないし
せいぜい高校の教科書程度 新聞や雑誌の評程度の知識しかないので
私の「感じる心」だけを頼りに観るだけだけれど
そんな知識のない私でもやはり 鳥肌が立つようなものすごい迫力を絵から感じる

ゴッホの絵は死のがけっぷちからの生への欲望であるように感じる
晩年の糸杉や星空の鬼気迫る筆致は涙が出るほどだろうと思う
(私はまだ実物を見たことがない)
ひまわりの絵はとても人気があるが それがどうしてかわからないのだけれど
私がどうしてひまわりの絵にすんなり心を馴染ませられないかといえば
それは 生でもない死でもないすごく中途半端な感じを受けるからかもしれない
アルルを去って病気になった(悪化した?治療中?)頃の あのうねるようなタッチには
自分の生命と引き換えに絵を描いているような痛ましいほどの迫力がある
死を背中に背負って 絵の中に必死で生を差し出しているように感じる
もがいているようなのがれたいような息苦しさが ものすごいタッチとなってあらわされていく
今回来ている「夜のカフェテラス」などは まだ冷静さが多分にあるけれど
(画面全体のバランスを抑えている右側の木が これからゴッホの心に来るだろう狂気の忍び足に見える)
「糸杉と星の見える道」になると そのもうすぐこわれてしまいそうな魂が画面からあふれでている
この絵の全体からはものすごい荒々しさを感じるが 細部に目をやれば その繊細な表現に驚かされる
画家としての思考 言い換えれば 色や形や光に対する思いやりがそこにはある
頭の片方で「絵を描く」ことを考えながら もう片方で「壊れていく心」をもてあましている
頭の中がはちきれそうになっていることが 絵を見ていると切ないほど伝わってくる

ドラクロアやミレーの構図に自分の解釈をのせて色をつけていくことは
きっとゴッホにとってはとても幸せなことだったに違いない
大きな懐に抱かれて絵を描いているような安心感があったに違いない
それらの絵を見ていると私は とてもおちついた安心した気持ちを受け取ることができるのだ
ゴッホはそれらの絵を一人で描いていたのではない 先人に対する思いを心のよりどころとして
おそらく 彼らに支えられて彼らに導かれて絵を描いていたのだと思う
彼らから得たものは 大きくゴッホを成長させたけれども
実際の自分の絵を描こうとした時に ゴッホはきっと一人であることに途方にくれたに違いない
心の中のドラクロアやミレーならば いつも彼の思ったとおりの形でそばにいてくれたであろうに
彼と一線を画した同時代の仲間から受ける疎外感は とても彼を疲れさせただろう
自分の絵に対する思いや思考を理解されないということは 自分自身を否定されたことに等しかったろう

先人である画家たちをゴッホは敬愛し心のよりどころとした
でも彼らは 実はゴッホ自身の心が作ったドラクロアやミレーに他ならない
ないものを見 ないものを追い求めたゴッホは出口のない迷宮にいたのではないだろうか
いつもひとりで 求めても届くことのない安らぎを追い続けていたのだろう
その時 絵を描くことはゴッホにとって 心の病の薬にもなったし毒にもなったのではないだろうか

孤高の画家という言葉をゴッホの形容詞のようにずっと見聞きしてきたけれども
私なりに 今日その言葉の意味がすこしわかった気がした

糸杉のうねりから 叫びにも似た孤独感が揺らぎたっているように見えた





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