メトロポリタン美術館展 乱 雑記

美術館に行く日は、けっこう雨が多いかもしれないことに気づく。雨の美術館はいい。
今回の渋谷bunkamuraは、雨の平日だというのに、すごい人手だった。

もともとピカソはあまり好きではない。
箱根の彫刻の森のお皿の数を見ると、この人のエネルギーは十分わかる。
いわゆるわけのわからない絵は、私のような凡人には理解できない。
でも、展示の目玉はやはりピカソのようだった。
年代順に並んだ展示の中でも、その存在は目立つし、迫力が抜き出ていた。
年代ごとに作風の変遷が感じられ、また、他の画家の「まね」ではない独自性がある。
でも、絵の持っているエネルギーが強くて、アルルカンやキュビズム時代の絵の前に立つと、
私はどこかに吹き飛ばされてしまいそうな爆風を感じてしまって、息ができなくなってしまう。

つまり(繰り返し言うが)ピカソは好きではない。
ただ、一枚今回すてきな絵を見つけた。
白い服の女という絵だ。どこかの画集で見たことはあった。
でもなんだか、いかつい感じがしてとっつきにくく、名前も覚えていなかった。

絵は、狭い会場の中でも比較的見通しのいい場所にあった。
遠くから見たら、やはり中年っぽいふっくらした女性の絵のように思えた。
それまでに並んでいた絵は、比較的こってり塗りたくった絵が多かったので、
気抜けするほど、この絵の周辺はすっきりしていた。
近くによって見ると、彼女はとても若い美しい女性だとわかった(そう感じた)。
油彩とは思えないくらい、透明感のあるオフホワイトがとてもきれいだった。
希臘彫刻のようにも通じる透明無垢なきれいさがある。
茶色でさらりと髪の流れを描いた筆が生き生きしていた。
水墨画を見ている時のような、無駄の力がないやさしい感じが伝わってきた。
薄く重ねられた色が、何でこんなに透明感を出すのだろう。
ガラスや水面の作られた透明感でなく、空気そのものの透明感を、描いているように思えた。
そしてその透明感は、彼女の心の潔さとか、あたたかさまで表しているような気がした。

このピカソの絵を白とするなら、キリコの自画像は黒そのものだった。
べったり塗られた色の上に黒で繊細な髪の毛が描かれている。
キリコも、こんなに細かい表現をするんだと思った。
自意識と意思が凝り固まって、べったり画面に張り付いている。
このキリコの自画像は、けっこうすきかもしれない。

ジャック・ヴィヨンというキュビズムの画家をはじめて知った。
食卓という絵がきていた。家に飾りたい絵だ。
ブラックなどのものよりもまろやかなキューブが、私には心地よかった。

バルテュスの実物をはじめてみた。ヤられた。この冷たさは何だろう。
目を覚ましたテレーズのテレーズは、年齢にそぐわないなまめかしさをみせつけながら、
自分を見るものの視線を完全に拒否している。受け入れることのない心は、冷たさの泉だろうか。
大作も、多くの人を配しながら、視線は一つとして重なることなく、画面の外に分散される。
絵からバラバラの視線がたくさん突き出てきて、私はいつまでたっても絵を捉えることはできない。
そのもどかしさが、不安になってわたしの心を覆い尽くしてしまう。
それがこわいのに、また絵の中に、何かを探してしまう。
ますます心の居場所がなくなってしまう。



あいかわらず、マチス ルソー モジリアーニ シャガール ローランサンは苦手だ。
家に帰ってきて図録を見て、ユトリロもあったのに気がついた。
濃い作品が多かったから、すっかり見落としてしまったようだ。
ミロは、いつものとおりの、思わず見ていて微笑んでしまう、あったかいやさしさが魅力だ。

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