三島由紀夫回顧展 乱 雑記


残された原稿の持つ力というのは不思議なものである

三島は原稿を書いた最後の作家だと位置づけられることがある
確かに 三島以降もまだワープロパソコンの時代にはしばらくの時間がある
しかし「文芸作家」という言葉のイメージを持つ作家は 彼以降 私には見当たらない
「文芸作家」には黒インクととか原稿用紙がセットのようにイメージとして付随している
原稿用紙をくしゃくしゃにしたり インク壷にペンをつけて文字をならべたり・・
ひねり出された文字だからこそ 出来上がった小説なり詩なり随筆なりの重さを感じたりもする
実際の文字を書いて作られたものが文学であるというような狭い考えを持っているわけではない
活字からでも 私たちは源氏のよさもシェークスピアノよさも得ることができるのだから・・・
ただ 自筆の原稿から私たちは その当時の作家の息遣いを感じることができる
ワープロの紙の束からでは伝わることのない思いを知ることができる
「青の時代」の題名を決める時 いくつかの候補が並んでそれを斜線で取捨選択した様子を知ったり
絶筆となった最後の原稿を見れば「この数時間後自害したのか」と自分の感慨を重ねたりすることができる
そういった作家自身の生き様に触れることができるのは 残された原稿があるからなのだと思う
丁寧な あるいはさらっとした落書きのような 様々な三島の文字が三島本人のように感じられてくる
ファンにはほんとうにたまらない回顧展だった



この回顧展では三島の生涯をいくつかの時期に分けて紹介していたが
私は本論よりも コラム的な小さなコーナーがとても気になった
その最後のほう 自決にいたる道程の手前の時期に
「オブジェとしての三島由紀夫」というコーナーがあった
彼が篠山紀信に撮らせた写真や「薔薇族」などの写真集が展示されていた
三島はものになりきることに(被写体としての自分をそう評した)快感を覚えているようだった
(そのようにキャプションに説明されていた)
三島と最近わたしの一番気になる人物澁澤龍彦との親交を考える時
三島の中にサディスティックあるいはマゾヒスティックな欲望があることは間違いなく
偶然昨日読んでいた澁澤の「幻想の画廊から」にO嬢の物語などを引用して
「もの」になりたい心理などを書いてあるところを興味深く読んだ後だったので
非常に 自分の気持ちの中で何か大事なものに行き当たったような興奮を覚えた
ものになること まったくのものになることなど 人にありえるのだろかと思う
ものとして受け入れてくれる対象があってこそ ものになる価値があるわけで
やはり ものになることにはすごく大きな自意識があることには間違いがないと思った   

また 猫のコーナーもあった
ひとつのコーナーを設けるほど 三島が猫が好きだとは知らなかった
小さい時から猫を飼っていたようで それは母親譲りの動物好きに由来するらしい
文人仲間の夫人に宛てた手紙にも猫のことが書かれていた
当時飼っていた猫の肉球の花押まで押してあるほど 猫に凝っていたようだ
その文面には 自分が夜食を食べたくて階下に行くと猫が待っていて
一緒に何か食べたくて にゃあにゃあよってきてかわいいと思うこと
自分の書斎のふすまを勝手に開けて 机の上の原稿をよごしたりすること
書斎に向かっている自分のところに来て 書き物の邪魔をすること
その時 猫には小説なんか書いている人間はよほど馬鹿に見えるだろうと思うこと
などなどが 書かれていた


美しい私の猫よ 
金と瑠璃の入り混じったおまえへの美しい眼の光に・・
という詩句のためではないが、
並外れて猫好きの私が、この頃は猫運が悪くて、
立て続けに二匹亡くしまして、
近頃の仕事場は寂しくてしかたありません。
あの憂鬱な獣が好きでしゃうがないのです。
芸を覚えないのだって、覚えられないのではなく、
そんなのは馬鹿らしいと思っているので、
あの小ざかしいすねた顔つき、きれいな歯並び、冷たいこび、
何ともいへず私は好きです。


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