古美術探訪 ひとりあるき

用語解説 (*)・・・この印のついた言葉には解説を添えました 法隆寺 回廊内にはいつも斑鳩の風が吹き抜ける・・の巻  戻る
般若寺 咲く花々も静かにたたずむ・・の巻  学生のころ 奈良ユースホステルによく泊まっていた 般若寺の百日紅が美しいから行ってごらんとユースの人に言われて 出かけたことがあった 小さな楼門をくぐり 十三重の石塔の建つ境内に入ると 東大寺や法隆寺などにはない 落ちついた空気があって その中で百日紅の花が咲いていたのを覚えている でも私は花のきれいさはわかっても このお寺のよさがわからずにいたと思う 実際その訪問以来 もう一回確かめるように行っただけで 繰り返し行くお寺ではなかった それでも 今回 団体を離れて一人でもう一回行ってみようと思ったのは ここのあまり目立たないなんの華やかさもない楼門をこの目で確かめたかったからだった 般若寺は 奈良の東北の北山と呼ばれる山際の高台にある 東大寺からバスで15分も行けば着くところだが 長いのぼりの坂道がなぜかせつない この坂を奈良坂という  奈良の都の人々は この周辺を般若野五三昧と呼び 亡くなった人の遺骸を捨てに来た また 平安時代の後期以来 病者 乞食 非人の集住地につながる道だった その集住地を奈良坂北山宿といい 現在も北山十八戸というらい患者の病室が残っている この地は当時 社会体制から疎外された人々が集まる場所であったのだ 般若寺はそのような地にあったお寺である 十三世紀になり西大寺の僧叡尊が それまで廃寺になっていた般若寺を復興し  般若寺の住職となった良恵や忍性らとともに この寺を拠点として 多くの不遇の人々の救済に当たったという 叡尊は文殊師利涅槃経(注1)に基づいて「非人は文殊菩薩の化身である」という考えを打ち出し 良恵や忍性らは その考えを元に救済を実行して行った 体の動かなくなった非人らを毎日背負って都につれて行き 彼らに物乞いで生計をたてさせたり 都で亡くなった人の遺体を運ぶ仕事を体の動く非人たちに与えたりした 古建築のことを知りたくて ここの楼門についての解説を読んでいた時 奈良や京の都の華やかな歴史の影に このような歴史があったことを知ることができて  再び 般若寺を訪れたい気持ちになったのである 般若寺の境内には 有名な石造物がいくつかある 本堂前の石灯篭は実は 本物は東京の椿山荘にあるのだが 素人の私から見れば まったくコピーとはわからない 十三重の石塔は建長年間に造られたもので 姿が美しい また笠塔婆と呼ばれる細長い石塔がある(注3) 笠塔婆には梵字(種子)が彫られていて 近くで境内のデッサンをしている方がそれを写生していた すこし心が痛んだけれど こっそりそれらを写真に収めさせてもらった 家に帰って 調べてみたら以下のごとくだった 左 阿弥陀三尊(阿弥陀・下左右に観音・勢至)の三種子と金剛界五仏の五種子 右 釈迦三尊(釈迦・下左右に文殊・普賢)の三種子と胎蔵界五仏の五種子 般若寺は いつの季節に行っても花がとてもきれいだ 昔は秋桜で有名だったが 最近は四季折々の花が咲き誇っている 私が行った十二月の中ごろには 匂い水仙がたくさん咲いていた 水仙は参道や多くある小さな石仏を清楚に飾っていて 見るものの心を慰めてくれる その小さい石仏たちは 名もなく死んでいった多くの人々をずっと見守ってきたに違いない 本堂には 慶派の流れを汲む仏師の作である文殊菩薩がある  獅子にまたがる騎像であり なかなか若々しい力にあふれた仏である 石仏の中に 父にそっくりなものを見つけた 形は地蔵菩薩さんだが 種子はキリークと読む阿弥陀をあらわすものだった キリークは種子の代表格のようなものなので いろいろなところに使われるのだろうと思った 境内をゆっくり回り 本堂にあがり本尊騎像の文殊菩薩を拝見した後 もう一度 振り返り楼門に歩いていく 夕方に近くなってしまって そばで組物(*6)を見上げても 逆光で細部がよくわからない 飛鳥時代に 大陸から木造建築の方法が伝わり 奈良平安両時代にかけて 日本の風土に合うような和様という建築様式が生まれた その後 鎌倉時代になり東大寺復興のために 大陸の新たな工法が使われた それらを大仏様(だいぶつよう)というが 純粋の大仏様は東大寺南大門に見られるのみだ 大仏様のさまざまな工法はその後 和様の建築の中に取り入れられて  その後の多くの社寺建築は様式としては折衷様式と呼ばれるようになる この楼門は大仏様が進化した形であることが 戦後の研究で明らかになり 国宝指定された 和様の屋根の造りは 三手先(*7)といわれる工法で軒先を長くして屋根を支えるよう造られている 寺院などで壁つきを見あげると柱頭あたりに組物が施されている その完成された組物の形を三手先という 三手先の施された部分の内側は当然 同じように組物が施されているのだが 大仏様は「貫」という工法を使うために組物を置く必要がなくなってくるのである(注3) 般若寺の楼門の上層部分は 完全にただの箱型になっており まったく組物が施されていない にもかかわらず 外見には複雑な組物が施されているのである つまり 大仏様の工法で建てられたこの楼門の組物は形だけのものである 複雑なこの楼門の組物は装飾のためにだけ組まれた「見せかけ」のものだとわかるのである 大仏様によって建てられたこの楼門は実に無駄のない構造になっているらしいのだ そして構造は簡素でありながら練りに練られたであろうこの屋根の意匠に 私は きっと心惹かれてしまったのである 右の写真をクリックすると「見せかけの組物」の様子がわかります 境内を出て 外からもう一回楼門の屋根を見上げてみる 中が空洞なのになんでこんな形の屋根を支えられるのだろう 少しの理屈を知っては見ても やはり単純な私は疑問に持ってしまうし  「見せかけ」であるのに立派な形をした組物に驚いてしまうのである この楼門の作者は不明である 般若寺の歴史での位置などを考える時 どことなく 沈んだこの寺の空気もうなずけるような気がするし 若いころにはその重たさが 私には理解できなかったんだろうと思う でも 南大門の建築を手助けした工匠が 世俗を捨てて あるいは疎外されて  この寺にたどり着き 自分の技をこっそりここに残したかもしれない ・・・などと 勝手にこの楼門を造った人への思いを募らせる時 この寺や門へのいとしさが 心に深くわいてきた また ひとりでいつかこの門に会いに来ようと思い 私は寺をあとにしたのだった 冬の夕暮れの風と水仙の花の香がやさしく私を送ってくれたような気がした  楼門から本堂へ続く参道
(注1)文殊師利涅槃経 この経典によれば 文殊菩薩は貧窮や孤独や苦悩の衆生に身を替えて 仏教修行者の前に現れると説かれていた 叡尊はこの教えに従って 非人たちの中に 文殊菩薩を見通したのだろう 叡尊らの救済活動を精神的に支えたものは文殊菩薩の教えであった 般若寺の本尊が文殊菩薩であることにふかく関わった 彼らの活動だったといえるだろう (注2)笠塔婆 笠塔婆とは卒塔婆から発展したものである 卒塔婆とは仏陀の遺物を収める塔のことであったが次第に変遷を遂げて 供養追善のために梵字や経文などを刻んで建てられる石造物となった その後私たちがお墓で見かける板の卒塔婆の原型である 十三重の石塔とともに重要文化財指定である  (注3) 般若寺楼門の断面図  左の図は断面図の部分のアップです (*7)の三手先と比べてみると 般若寺楼門の組物が屋根を支えていないのがわかります  グレーで塗りつぶした部分がない形が般若寺の○で囲んだ部分とと合致します